自戒与太話: 上下意識はハッカー文化に合わない
あくまで自戒として。少しだけ 8p 方面へのエールも。
前提:フィフティー・フィフティーな関係って、言うじゃんよ?
我が国は、少なくとも法律の建前の上では欧米と同じく、 身分の上下のない、平等な社会 を目指すことになっています、よね? だとして、以下に挙げる関係が、日本で「 50%/50% の、対等な関係 」(お互い様、貸し借りなし、恨みっこなし…)になっていると言い切れる人が、どのくらいいるでしょう?
- 客と店員
- 雇い主と従業員
- 人事部と就職活動中の人
- 上司と部下
- 元請けと下請け
- 大企業と中小企業
- 老人と若者
- 年長と年少
- 先輩と後輩
- 先生と生徒
- お役人と一般大衆
- 政治家と一般大衆
- 先生と呼ばれる地位と、そこから漏れる人
もちろん、以下の点は踏まえるとして:
- 上記の関係の中には、本質的な力量の差が存在するケースもあるので、そこを勘定に入れた関係のアンバランス(貸し借り)が生じるのはやむを得ません。
- あるいは会社や軍隊のように、意思決定と命令の秩序体系を作るため、便法として地位を規定することもあるでしょう。
- 心の中でどう思っているかは自由です。それを社会的に、言葉、態度、行動として外に出した時だけを考えます。
思考実験1. 文脈を外してみる
では、以下のように元の文脈を離れた時に、両者がきちんと「対等な関係」にリセット出来ているでしょうか?
- お店の外での「客と店員」
- 業務時間外の「雇い主と従業員」
- 業務時間外の「上司と部下」
- 部活の外での「先輩と後輩」
- 学校の外での「先生と生徒」
文脈の外まで引きずって「偉ぶる / 下手に出る」部分が有れば、そこには根拠なき「上下意識」があるように思えます。「下手に出ない、といって怒る」などは、相手を(マイルドな)奴隷と見ている証拠でしょう。
フェアか否かは発言内容だけでなく、態度でも決まる
文脈を外れた時に「対等な関係」に戻れるなら、文脈の中ではどう振る舞っても良いのでしょうか? そんなはずはなくて、例えば「 客から店員への暴言 」は不当でしょう。「強い立場を不当に利用して、抵抗できない相手を攻撃している」と言えます。
ただ、一歩踏み込んで、 どこからが暴言か? となると、「何を言ったか・行ったか」単体で判断するのは簡単ではない、ように思います。例えば:
- 食堂で客から店員へ「◯◯がマズイ、と苦情をいうこと」
- 仕事で上司が部下へ「どちらのデザイン・プログラムソースコード・…が美しいか、に関して指導すること」
この「マズイ」「美しい」は個人の感覚に依存するので、発言が 妥当か否か を字面だけで判定するには多数の他者の意見も集めない限り無理でしょう。そして妥当か否か定かでない発言が フェアか否か は、どんな態度で、声色で、それを言ったかで決まる所が極めて大きい、ように思います。
思考実験2. 文脈の中で、立場を逆転してみる
そこで今度は、ある発言態度がフェアか否かを判別するための思考実験として、 以下のように(文脈の中で)突如、立場が逆転したケースを考えてみましょう。
- 学校で「夏休み明け、クラスメートに、背を抜かれていた」
- 職場で「以前の部下が、今度は上司になった」
- 職場で「以前は自分が相手のバグを指摘する側だったが、今度は自分が相手にバグを指摘される側になった」
- 時代劇で「邪険に扱ったジジイが、黄門様だった」
ここで強い立場から弱い立場に移っても、全く同じように振る舞える人は、万人にフェアに接する努力をしている人ではないかと思います。逆に「居心地悪く・気まずく」感じたり、「仕返しされないか」怖くなる人は、「上下関係と上下意識が生む、強い立場の力」から不当な利益を得ていた、んじゃないカナ〜
強い立場にある人が、その立場の力を乱用すると、どんな害がある?
- 無駄が無くならない、増えていく
- そこを理不尽に感じる、不幸に感じる人が増える
- 組織・社会に閉塞感が蔓延する
- アノミー(無連帯)が現出する??
真のハッカーならどうするか
真のハッカーは、無駄や理不尽を嫌うはずです。何故なら、その無駄こそ、ハッカーの愛する計算機が解くべき問題だからです。無駄を無駄のまま放置することを心の底から憎悪し、それを強要する者には (実行できなくとも) 心の中では殺意に近い感情を抱く、それがハッカーの自然な感情であるように、私は理解しています。
また同時に、真のハッカーは、矛盾を嫌い一貫性を追求する心を持っている、ように私は思います。論理や構成の一貫性は、プログラムの美しさと通じる部分があるからです。
それ故に、真のハッカーを目指す人は、自分の中から上下意識を駆逐せねばならない。上下意識に基づく行動を、注意深く見分けて、自分がそれをせぬよう避けねばならない。さもなくば、 無駄への殺意 か 自分の中のダブルスタンダードへの殺意 が自分を殺す日が来るからです。
Q1: 体育会系的な上下関係が全て悪だと言うのか?
いいえ。「敬意を表現する方法」の訓練システムとして、体育会系の上下関係には一定の価値があるでしょう。名誉への敬意を表現するフォームを多くの日本人が学んできたことは、社会の安定に役立って来たのではないでしょうか。
問題は、その敬意を受け取った側が、相手を「目下の者」として扱いがちなことだと、私は思います。敬意には感謝で返せば済むだけなのに。ちゃんとした武道教育にはこれも含まれていたはずですが…
Q2: 具体的に何から始めれば?
例えばコンビニの店員さんに敬語で接するとか…
おまけ
「 自分の力をフェアに使う 」とはどういうことか、主人公と一緒に悩んでみると、学びがある、かも?
世捨て人の(胡散臭い) まじない師ならではの「力の正しい使い方」から、学べることもある、かも?
もう少し真面目に、権力闘争と正義について考えたい人には、 兵頭軍学 をオススメしたいです。それについてはまた今度…